石上神宮フォトログ 山の辺の杜から
2017.09.29
月草のうつろい易く
テーマ:境内

 

今、山の辺の道沿いの野原には、いよいよ色増した露草が目立っています。

日中はともかく、明け初めの気温が下がってくると共に露草の藍色がますます濃くなっています。

随分と古くからあると見えて、『万葉集』には月草、鴨頭草の表記で九首も詠まれています。

この時代から花の青汁を採って染料に用いられており、ツキクサの名は臼(うす)でつく、ついたところからの命名とか。

染めの世界ではこの花の絞り汁を紙に染め、下絵を描く時に用いる青花紙として知られています。

色がすぐに落ちる、脱色するので、「うつる」「け(消)ぬ」などにかかり、これに関わって六首が、早朝に咲いて昼には閉じてしまうの

で、命の短いことになぞらえて三首が載せられています。

どれも移ろい易い恋心を詠ったと言えば聞こえは良いのですが、男女の恋・私的交情・相聞の類で、早い話が失恋の恨み節となっていま

す。

「月草も うつろい易く 思へかも わが念(ふ)も人の 言も告げ来(こ)ぬ」(巻4・583番)

「あなたは私のことを心の変わりやすい女と思っていらっしゃるのでしょうね。その証拠に手紙の一つもよこして下さらない。恨んでいま

す。」少々の意訳ですが、こんな感じが多いようです。心変わりは後後よくありませんよ。

2017.09.27
生命の守護
テーマ:境内

 

このお社は「七座社(ななざしゃ)」と呼び、お鎮まりになる神様は社名の通り、七座つまり七柱の神様が祀られています。

従って一つの建物に七つの扉がついていて、鎮魂祭の行なわれる11月22日が例祭となり、この日順序を追って次々に御扉が開けられま

す。

左手の天神社(てんじんじゃ)には二柱の神様が鎮まり、両社あわせて九座の神様となり、鎮魂に関わる神として上古より御鎮座になってい

ます。

宮中においては新嘗祭の前日夕刻より綾綺殿(りょうきでん)にしつらえた祭場で行なわれ、同じく九座の神様が迎えられ、鎮魂の御儀が行

なわれます。

このことは古く平安時代初期、禁中の儀式などが記された『延喜式(えんぎしき)』にも記されています。

禍(わざわい)・災難を改め直す、凶事を吉事に転じて、我々の生命をお護りいただく神様として、古くより信仰されています。ご来宮の時

はぜひお参り下さい。

2017.09.24
花野の女郎花(おみなえし)
テーマ:境内

 

花野(はなの)は多くの花の咲き誇る春に関連する語ではなく、どうも万葉の時代から秋に定着している季語となっています。

春にもまして、今頃の秋の野原は案外花が咲き競い華やかで、それでもやがてものみな萎れ、枯れ失せるその前の咲き揃う千草に万葉人は

春にない最後の絶唱を見い出していたのでしょう。

夏の厳しい天候にじっと耐え忍び、花は不完全となり、葉は少々虫に喰われ、或いは病葉となり、それでもなお命の限り精一杯の花を咲か

せている姿に妙に共感をもちます。(年老いたせい?気のせい?)

ひょっとして万葉人も見る人の心を打つ秋花の表情に春にない感情を抱いたに違いありません。

だれに見られることなく、野辺にひっそり咲く花を一輪手折(たお)って我が草屋に活け、最後までその雄姿を愛でたいと思います。

2017.09.21
目には清かに
テーマ:境内

 

古代の人々は春夏秋冬、四季のなかで最も好んだのは秋であったらしい。

『万葉集』には植物の中で、秋の七草の第一に置かれる萩が一番多く詠われ、『源氏物語』では四季のなかで、秋に関わる語が最多となっ

ている。

これから情感豊かな秋がいよいよ始まり11月に冬へとバトンタッチするまで、もののあはれの秋の情趣が深まってくる。

四季にはそれぞれ色があると言い、秋はさしずめ古来から白となっています。

拝殿に差し込む陽射しは日に日にやわらかくなって、乾いた風が吹き抜けると少々白さを感じるのは五感豊かな私のなせるワザ?

野に目をやると彼岸花が咲きはじめて、田の畦道を際立たせています。

田の主(あるじ)の稲穂は黄金色に染まり、風が吹くと稲穂が美しく揺れて、黄金波が立ちます。

この風がお米を一段と美味しくするそうで、乾いた風が稲の根本に新鮮な空気をあたえ、不要になった二酸化炭素や熱を逃してやると言

う。

これから1ヶ月は稲と風さんは喧嘩せず、仲良く暮らして、気持ち良い秋光と黄金風がうまく続いて、より一層美味しいお米の誕生を楽し

みに待っています。

・・・君が心に秋や来ぬらん?

2017.09.19
「諸霊招魂碑」
テーマ:境内

 

これは富岡鉄斎の筆によるもので、鏡池の南方にあります。

鉄斎は明治9年5月3日、41才の時に石上神宮少宮司に任命され、記録によると6月9日に赴任しています。

富岡鉄斎は日本を代表する文人画家で、力強い筆勢と色彩豊かな表現は当時の多くの洋画家を魅了し、かの評論家の小林秀雄をして、「東

洋のセザンヌ」と言わしめました。

その奔放な作品は万余に及びますが、それとは裏腹に維新後の歴史ある神社の衰微を嘆き、神社界の再興を希求し神官となった。

人柄は極めて真摯で誠実な性格であったと聞く、石上神宮、次いで大鳥神社在任中は自ら絵筆を奮い、書画を描いて神社の復興、興隆に

粉骨砕身事に当たり、更には御陵の巡拝と調査も実施した。

兄の死去に伴ない神職を辞し帰京、その後画業と学問の道に進み、画工と呼ばれるを好まず、自ら学者として修身と考証学を教授、晩年は

帝室技芸員、帝国美術院会員となり、大正13年89歳にて逝去。

当神宮にはこの他に参道入口の左側に建つ社号標も鉄斎の筆によるもので、大正2年御本殿造営の竣功記念として刷られた扇面には鉄斎の

下絵が用いられた。

秋分の日を前に先人の偉業を偲びたいものです。